「営利誘拐」というのは、非常に成功確率の低いリスキーな犯罪だと最近まで思っていました。そもそも誘拐自体をどのように成功させるか、誘拐した人をどこにどうやってかくまっておくのか、身代金の要求をどのような手段で行うのか、最後のハードルとして身代金の受け取り後にどうやって逃げるのか、などなど。
特に最終関門の「身代金の受け渡し」は、何らかの形で物理的接触を試みなければならないので、その前まではうまく事を運ぶ事が出来ても、自分の身を晒す事になる以上、失敗確率が格段に跳ね上がる事が予想される・・・と思っていたのですが、「振り込め詐欺」の被害が結構多いという事を考えると、ソノ手が使えるのじゃないのかな、とか真面目に考えてしまいました。
「世界の終わり、あるいは始まり」 - 歌野 晶午
東京近郊で連続する誘拐殺人事件。誘拐された子供はみな、身代金の受け渡しの前に銃で殺害されており、その残虐な手口で世間を騒がせていた。そんな中、富樫修は小学六年生の息子・雄介の部屋から被害者の父親の名刺を発見してしまう。息子が誘拐事件に関わりを持っているのではないか?恐るべき疑惑はやがて確信へ・・・
あの「葉桜の季節に君を想うということ」の作者ですので、どうしてもその系統では無いのかと序盤から深読みの連続。コレはひょっとしてネタ振りか?コレはひょっとして違う意味なのでは?などなど、気になる箇所は前に戻って読み返したりしつつ・・・途中で無駄である事に気付きました。
そこからは読み進めるのが苦痛で仕方無かったのですが、頑張って読み終わっても、特に明確な「オチ」も無くてガッカリしました。そしてよく見ると「葉桜の・・・」よりも以前に書かれた作品であり、結局ミステリーでも何でもない、タダの実験的な小説でした。こういうのは作品として世に出さず、「創作プロット帳」に書き留めておくだけにしておいた方がよろしかったのではと思います。全く知らない人の本だったら、あるいはまだ我慢できたかもしれませんけど、長かったので時間を無駄にした感がどうしても・・・ね(-_-)。